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激動の幕末、戊辰戦争において、越後・長岡藩を率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる継之助ですが、本来目指していたのは『武装中立』でした。
諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助。しかし、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していくこととなります。
このページでは、「長岡の蒼龍」と呼ばれた、継之助のその生涯を紹介していきます。
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| 〜 継之助の略歴 〜 |
| ■1827年1月1日 |
長岡城下に生まれる |
| ■1842年 |
元服 |
| ■1852年 |
江戸遊歴 |
| ■1858〜1860年 |
江戸・西国遊歴 |
| ■1868年1月 |
戊辰戦争勃発 |
| ■1868年4月 |
長岡藩・軍事総督に就任 |
| ■1868年5月 |
小千谷会談決裂、新政府軍と開戦。 |
| ■1868年8月16日 |
会津塩沢で没する。42歳。 |
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文政10年(1827)
〜慶応4年(1868) |
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生い立ち
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河井継之助は文政10年(1827)1月1日、長岡藩の中級藩士・河井代右衛門の長男として長岡城下に生まれました。
名を秋義、蒼龍窟と号しました。
河井家は代々能史の家柄で、継之助の父・代右衛門も勘定頭を務めていました。その一方で、僧の良寛とも親交のある教養人でもありました。
継之助は、年長者の理不尽な脅しにも屈しない意思の強い子供であったと伝えられています。 |
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江戸、そして西国遊歴
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24歳で7つ年下のすがを妻に迎えるが、向学心やみがたく、26歳で単身江戸を目指す。蘭学や西洋砲術で知られた佐久間象山らの門を叩きました。
時あたかも黒船が来航し、事態の容易でないことを肌で感じた継之助は、幕府老中であった藩主・牧野忠雅(ただまさ)に藩政改革の必要性を建言。これが採用されて初の役職、評定方随役を任命されるものの、間もなく上役の迫害を受けて退任しました。 |
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安政4年(1857)、父から家督を引き継ぎ、藩では外様吟味役に起用されます。
安政5年(1858)に再び継之助は峠を越えます。今回は江戸だけに留まらず西へ西へ。目指したのは備中松山藩(岡山県高梁市)の陽明学者、山田方谷(ほうこく)でした。
継之助は藩の危機的財政を救った改革者の門で、半年間学び、万延元年(1860)、34歳で帰郷しました。
【継之助が西国遊歴の模様を書き綴った旅日記。塵壺】⇒ |
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近代国家を見据えた改革
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尊皇攘夷運動が激化する中、藩主の牧野忠恭(ただゆき)に京都所司代、さらに老中職の依命が下ります。継之助は幕府もろとも失墜しかねないと辞任を求めたために忠恭は機嫌を損ね、継之助は辞職をしてこれを償うことになります。
ところが慶応元年(1865)、忠恭の抜擢で再び外様吟味役に就任すると、即在に案件だった山中村(現在の柏崎市)の庄屋と村民の争い(山中騒動)を解決し、これを布石に異数の昇進を遂げていきます。
この間継之助は、藩の組織・財政改革はもちろんのこと、慣習化した賄賂や賭博を禁止し、遊郭も廃止させました。
また、武士の不当な取り立てを罰して農民を救い、商業発展のため、川税や株の特権を解消。藩士の禄高是正や門閥解体も当時、画期的なものであり、継之助は端倪すべからざる手腕をいかんなく発揮しました。 |
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【継之助の書】
民は国の本(もと)
吏は民の雇(やとい) |
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長岡藩の武装中立を目指して
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継之助は、封建社会の古びた秩序を一掃し、人心の刷新を図りました。夢に描いたのは新鋭な国家構想ー他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていく「武装中立国」の実現。
そのために軍備にも極めて力を入れました。クリミア戦争で活躍した「ミニエー銃」から、初の機関銃「ガトリンク砲」まで、武器商人スネルから購入していきます。
また中島村(現在の中島)には兵学所を整備してフランス式兵制を推進しし、こうして長岡藩は雄藩も目を見張る、近代武装を成し遂げました。
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| ◆ 継之助について |
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