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NHK総合「その時歴史が動いた」に継之助が取り上げられました
第317回 北越の蒼龍 ”明治”に屈せず〜河井継之助 地方自立への闘い〜
に継之助が取り上げられ、平成20年3月5日 (水) に全国放送されました。(放送終了)
河井継之助の戊辰戦争における闘いを、長岡藩の「自立」の視点から迫る内容です。
当館も取材協力いたしました。
継之助を育んだ長岡藩
 越後長岡藩7万4千石。藩主は、三河国牛久保(愛知県豊川市)の土豪から身を興した牧野氏で、元和4年(1918年)に譜代大名として長岡の地に入封した。

 藩に伝わる「牛久保の壁書」は、牧野家が戦乱の地で培った武士の心得、18条をまとめたもの。250年間の統治によって深く長岡の地に浸透し、今日に至るまで影響を与える。

 中でも「常在戦場」の4文字は、かつて藩士たちの一番の信条。継之助もこの言葉を愛した。
ガトリンク砲の資金づくり  商人顔負け、継之助の金銭感覚
 継之助の遊郭通いは有名で、浪費家の印象が強いが、幹線の扱いは極めて厳正だった。取るべき時は取り、払うべきは払うのが信条で、半銭たりとも無下にしなかった。

 この感覚を生かしてか、江戸藩邸整理の際、貴重品を入札で売却した。また長岡への帰路、江戸で購入した米を箱館(現在の函館)で売り払ったり、銅銭を銭単価の高い新潟で換金したりした。

 このように継之助は商人もどきの手配りで、莫大な利益を上げ、長岡藩の貴重な軍資金を得た。長岡城落城の際、運び出された軍資金は11万両を超えたといわれ、その財力は他藩の羨望の的であった。

記念館所蔵のガトリング砲(複製)
悲命に倒れた勇将、山本帯刀  継之助を支えた青年大隊長
 大隊長として活躍し、継之助の没後、軍事総督として跡を継ぐものと期待されていた山本帯刀。

 藩士120人を率い、殿軍(しんがりぐん)となって八十里越えの難所、鞍掛峠(くらがけとうげ)を死守した後、遅れて会津に入るが、飯寺の奪取作戦で味方の退却を知らずに突進し、敵を同胞と信じて手が出せず包囲される。

 帯刀は降服を迫られたが、「徳川300年の恩恵に背くことがなぜ出来ようか。我らは藩命により戦場にあるが、降服せよとは命ぜられず」と反駁し、敵をひるませた。

 寒風の中に一晩されされた後、24歳の若さで斬首された帯刀は、継之助とともにこの戦の首謀者とされ、山本家は一度断絶されている。

 後に、初代長岡市長の計らいで、山本五十六がこの名家を復興させた。彼もまた戦火の中で非業の死を遂げている。
山本帯刀/神童と呼ばれた帯刀は、8歳で安田家から、親戚筋に当たる長岡藩家老・山本勘右衛門の養子になった。
山本五十六/生家・高野家の祖父と父、兄二人が戊辰戦争に出陣した。五十六は故郷の先人、河井継之助を尊敬したという。
様式武器の調達士 スネル兄弟
 幕末、外交官として入国したプロシア出身のスネル兄弟(兄ヘンリー、弟エドワルド)。
 横浜に「パスケ・スネル商会」を設立し、主に越後や東北諸藩への、武器・軍艦の仲買人として活躍した。

 継之助は二人と知り合うと、かれらから外貨や様式武器を調達しました。また、会津藩の家老、梶原平馬にもこの二人を紹介し、この縁でヘンリーは、後に会津軍事顧問に任命されている。

ちょんまげを結い「平松武兵衛」と名乗った青い目の武士、ヘンリ・ースネルの屋敷跡、通称「異人館」が会津の地に現存し、当時の面影を今に伝えている。
継之助が好んで食べた 桜飯

 継之助が「これほどうまいものはない」と絶賛した「桜飯」は、大根の味噌漬けをみじん切りにし、ご飯にまぶし炊き込んだもの。

 味噌漬けを桜の花に例えてか、長岡藩の家中では、これを一般に桜飯と呼んでいました。

【簡単再現!桜飯レシピ】
炊き立てのご飯に、大根の味噌漬を刻んで混ぜてください。
味噌漬を一緒に炊き込むより簡単に出来上がります。

 

 

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